「海の幸」と小谷家


「海の幸」と小谷家



 1904(明治37)年夏、東京美術学校を卒業した青木繁は、坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと共に写生旅行に出かけ、房総半島最南端の小さな漁村・布良(めら)を訪れる。布良は現在の千葉県館山市富崎地区である。

 繁と同郷の詩人高島宇郎が旧知であった柏谷旅館に数日泊まっていたようだが、「路銀に窮して、どこか世話をするところがないか。」という話で、布良の小谷(おだに)という漁師の家にしばらく滞在することになった。当主の小谷喜六は、布良の網元だが、好人物で世話好きなところがあり、南房総の海に魅せられてやってくる風雅人たちの面倒をこれまでも何度もみていたという。

 2009(平成21)年11月に館山市の教育委員会は、この小谷家住宅を市の有形文化財に指定したのである。小谷家は、海に下りる斜面窪地に、南向きに建てられており、玄関の土間を上がればすぐ8畳の表座敷、その東隣には6畳二間が続く奥座敷があった。繁たちはこの奥座敷二間を借りて逗留していた。

 4人は近隣の海辺でスケッチをくり返していた。8月に入ったある日、一人洲崎方面までスケッチに行った坂本が、平砂の浜で見た裸の漁師たちの生々しい漁の模様を繁たちに話す。繁は坂本の話に興奮し、翌日にはその現場に行き、漁師たちにその様子を聞き、残された鮫の残骸を丁寧にスケッチした。さらに、裸体のモデルに若い漁師や坂本らを担ぎ出し、奥座敷の二間で精力的に描きあげた。これが後に青木繁の名を後世に残し重要文化財に指定された代表作「海の幸」である。

真日まてり磯の岩床焼け赫けて底なる潮呻吟(うめく)に似たり

といった海岸風景をよんだ歌もあって、海浜散策に、絵画制作にと熱中している。この時期のようすを、福岡県八女市に帰省中の梅野満雄にあてた長文の手紙、8月22日の日付が入っている「絵入り書簡」は、よく当時の青木の姿を伝えている。

 7月の中旬にやってきた繁たちは、9月の初めに小谷家を後にするが、この間、繁は「海の幸」や「海景」などの作品の他に、福田たねという女性とのロマンスも手に入れた。青木繁のみじかい生涯の中で、いちばん幸せな時期が布良での日々であった。

 小谷家は代が代わり現在は小谷栄老夫妻が住まわれているが、家屋そのものは、ほぼ青木繁たちが滞在した当時のままであり、200坪からなる屋敷の庭木も当時の佇まいを残している。

 しかし、築後130年の月日を経た家屋は老朽化しており、朽ち果てる前に修復保存し、「海の幸」が誕生した文化的価値を永く後世に残す機会は今しかない。



(引用と参考: 「悲劇の洋画家 青木繁伝」 渡辺洋、
「青木繁・坂本繁二郎とその友」 竹藤寛、
「青木繁展<生誕90周年記念>図録」 河北倫明、
「講談社版日本近代絵画全集 青木繁」 河北倫明、
など)









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