特定非営利活動法人青木繁「海の幸」会 青木繁と私


 青木繁と私

◆「Art is long、Life is short」というロングフェローの言葉が、
  彼(青木繁)ほど当てはまる人を、私は他に多く知りません         馬越陽子 (洋画家)    ⇒open


◆ケシケシ祭                                      林田博子 (洋画家)    ⇒open


◆青木繁の『朝日』と私、そして母校同窓会                    北島治樹 (洋画家)    ⇒open

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「Art is long、Life is short」という言葉が彼ほど...        [馬越陽子(洋画家)]
 どこまでも自分の道を、自らが自分で切り開いていかなければならない、というのがアートの道です。そこには、もうすでに身を挺して道を開かれた偉大な先人たちの照らす道があります。
 当時、私は20歳位でした。そして絵を描きたいという熱情だけが私を支えておりました。そのころ6畳の私の勉強部屋はほとんどアトリエと化して絵具だらけになっておりました。それで、英語学の試験の前の日などは、もう絵を描きたくてたまらなくて徹夜で絵を描いてしまって、翌日の試験には殆ど白紙答案を提出して追試を受けたというようなことを、今思い出しております。
 そして絵が分からなくなると私はブリヂストン美術館にとんで行きました。その頃私は青山に住んでおりましたので30分ほどで美術館に行けたからです。
 そこには私にとっては3種の神器ともいえる、セザンヌのサントビクトワール、ルオー、そして青木繁の「海の幸」、「わだつみのいろこの宮」がありました。
 10人ぐらいの漁夫が大きなお魚を担いで歩く中で一人だけこちらを向いて歩いている人が居りました。それは青春の高揚そのもののようでもあり、また希望の行進でもあるように私には映りました。
 私は何度も通っては安らぎと畏敬の念を抱いたのです。
 その作品が、青木繁が22歳の時に美校を卒業した年の作品であるということは、後になって分かったことでした。美校時代の青木はずば抜けた才能と、そしてコートの下は全く裸だったり、その並外れた奇行は今や伝説になっております。
 ですが、その絵の前に佇む度に、その画面の奥からの声は、その色彩の神秘とロマンの香りと共に私を一気に想像の世界、イマジネーションの世界に引き込んで行くものでした。

 天才の軌跡そのままに29歳で生涯を閉じた青木繁ですが、「Art is long、Life is short」というロングフェロー*の言葉が彼ほど当てはまる人を、私は他に多く知りません。
 今、没後99年の歳月が流れました。その間にこの世界は2つの大戦を刻みました。第一次世界大戦そして第二次世界大戦。第二次世界大戦で、この東京は焼土と化しました。
 短い人生の中で最も高揚した青木繁の海の幸を制作した布良の家屋が、この東京が焼土と化した昭和の激動の時代を経て無事に存続するということは奇跡的なことです。
 そしてかつて私が美校に入る前、拠り所として何度も見に行った海の幸の制作現場の保存に、私が関わることになったのはとても不思議なことだと感じております。
 あたかも流れ星にも似た束の間の光芒の輝きの中で生み出された作品の制作現場を保存することは、芸術を愛する多くの人々に大きな意義のあることと思います。そして、アートが世の中の混乱を経ても厳然と守る人々がいることを強く感じております。
 (2010年2月27日NPO法人青木繁「海の幸」会 第一回通常総会 開会の辞より抜粋)

*参考:ロングフェロー=ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow, 1807年2月27日 - 1882年3月24日)は、アメリカ合衆国の詩人である。代表作に、「ポール・リビアの騎行」(Paul Revere's Ride)、「人生讃歌」(A Psalm of Life))などがある。メイン州ポートランドで生まれ育つ。ブランズウィックのボードン・カレッジで学び、幾度かの海外滞在を経た後、後半生の45年間はマサチューセッツ州ケンブリッジで過ごした。 出典: Wikipedia

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ケシケシ祭                             [林田博子 (洋画家)]
今から40数年前になろうか、帰省した折、何回目かの「兜山のケシケシ祭」に参加した思い出がある。故河北倫明氏・故豊田勝秋氏ほか久留米の名士の方々の参加があったように記憶している。坂本繁二郎筆跡により刻まれた
     「わが国は筑紫の国や白日別母います国櫨多き国」
の碑の前で故福田蘭童氏による尺八の演奏が行われた。
 筑紫平野と筑後川そして背振山脈を見晴るかす場で、尺八の音色浪々と流れた。どのような曲名だったかは定かではないが今もその景色を思いだすことが出来る。周りの人それぞれが何を想い、何を感じながら音色に聞き入っていたろうか。そして蘭童氏は父「青木繁」への想いは如何ばかりであったろうかと。28歳という若さで旅立った天才、日本の画界に多大な影響を与えた「青木繁」。

 私は高校のとき石橋正二郎氏から久留米市へ寄贈よる石橋美術館の完成で数点の作品を観ることが出来た。
 「海の幸」の前に立ったとき力強さ・迫力・作品の大きさ・作品から受ける偉大さ・荒々しい未完の美・観る者に大漁の喜びと人の哀愁を訴えてくるような感じを受けたものだった。美術館が比較的近かったので帰省するたびによく脚を運んだ。郷土(明善)の偉大なる先輩として最近取り上げられることが大変嬉しい。
                      ◇     ◇     ◇
 絵は写すだけでは創作ではない。言葉の及ばない世界こそが絵画だと思う。そこに「青木繁」が存在する。写し取っただけの絵は観るものには何も伝わってこない。言葉の及ばない想像力が大切だと思う。また、この夏久留米に帰るのでもう一度「海の幸」の前に立って来ることにしたい。

                                        (2010・8・5 林田 博子)
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青木繁の『朝日』と私、そして母校同窓会              [北島治樹 (洋画家)]
45年前のこと、中学3年生の美術の教科書に青木繁の自画像が載っていた。朱色で輪郭を描いたあの自画像である。人物をこのように表現して良いのかと熱く心震わせ、私は次回の課題が「自画像」だったらこの作品を真似て描こうと密かに思った。
 翌春、私は隣町の佐賀県立小城高等学校へ入学した。淡く美術への道を志していた私は入学早々衝撃的なことと出合った。美術の教科書に載るほどの画家の絶筆と言われる作品が小城高の図書館に展示されていた。1910(明治43)年に佐賀県唐津で描かれた、青木繁作『朝日』である。
 初めて出合った著名な画家の50号程の油絵を見るために、私はほとんど毎日図書館に日参した。図書館長の先生から「お前、また来たか。」と度々言われたものだ。
 高校図書館収蔵の画集にも『朝日』は掲載されていて、小城高校黄城会(小城高校の同窓会の名称)所蔵と記してあった。私はそのことがとても嬉しくて、いけないことと判ってはいたが隠れて赤のボールペンで画集のその部分に下線を引いたのであった。下線は画家になりたいとの思いに刻印を押すようなものだったかも知れない。
 そのような感覚を伴いつつ、その後32年の歳月が流れ、私は母校小城高校の美術科教師として赴任することになった。赴任決定直後、あの下線の記憶がよみがえり、「あの画集はまだあるのだろうか?」と懐かしく、大いに気になった。赴任の手続きももどかしく、図書館に行ってみると青木繁のコーナーが特別に設けられてあり、その中にあった! 母校での私の美術の授業はこの話から始めたものだ。しかもその後図書館長もしばらく任務することとなり、私と『朝日』の因縁(?)は単なる奇遇とは、今でも思っていない。
 現在『朝日』は小城高校図書館には展示されていない。管理上や佐賀県下および全国の広汎な鑑賞を考慮し佐賀県立美術館に管理を委嘱している。

 ここで、青木繁の『朝日』が小城高校の同窓会である黄城会の所蔵になっている由縁を青木の晩年近い年譜を示し、また、青木について研究していた郷土小城町の美術史家古賀次郎氏(故人)からの聞き取りを根拠として記しておきたい。

 ○1908年 (明治41年)26歳 福岡県久留米に帰郷清力酒造(現在大川市鐘ヶ江)に逗留。
                  家族と衝突し放浪生活を始める。
 ○1909年(明治42年)27歳 天草、熊本地方を放浪。体調を崩す。
                  秋以降佐賀にあって手記・歌集などを残す。
 ○1910年(明治43年)28歳 佐賀市の旅館「あけぼの」に滞在。
                  この間、旧小城中美術科教師平島信を訪ねる。
   結核を患っていた親友の病気療養費の捻出を考えた平島は、当時の国井校長に相談した。
   その結果、江里口悟氏(当時の小城町の麹屋旅館主人)、国井校長、平島信ほか有志から
   の拠金を得て、佐賀県古湯温泉での療養などの治療費に当てた。
                  佐賀県唐津で『朝日』・「夕焼けの海」を制作。『朝日』は療養
                  費のお礼として旧小城中学校(現在の佐賀県立小城高等学校)に
                  届けられたが、病状悪化により福岡の松浦病院に入院中死去した
                  ため、大作としては絶筆となる。
   多額の療養費を拠出した江里口氏、国井校長、平島信らの意向により『朝日』は同窓会(黄城会)
   の所蔵となる。

 前述の通り、通常『朝日』は佐賀県立美術館に管理委嘱されているが、毎年5月3日に盛大に開催される同窓会総会の折「里帰り」し、会場に展示される。
 創立110年を超える小城高校同窓会の黄城会には全国から母校愛に溢れる大勢の卒業生が集まる。『朝日』が黄城会に寄贈されて100年近く経つことになるが、波濤の上の朝日が、我が同窓会が一致団結し人生の様々な困難を乗り越える心意気に例えるごとく、黄城会のシンボルとした感性は理解出来るであろう。
 『朝日』は毎年開催される黄城会総会で白手袋をした実行委員たちの手によって最初に会場に展示される。全国に様々な同窓会の形はあると思うが、会次第の最初に芸術作品が掲げられる同窓会を私は他に知らない。
 絵が多くの人々を集める例である。それが浪漫を貫いた青木繁芸術であり、我が母校の同窓会であることは誇らしい。
                 2011・1・7 (独立美術協会会員・佐賀県立小城高等学校第20回卒業)















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