特定非営利活動法人青木繁「海の幸」会 青木繁の生涯


青木繁(1882〜1911)の生涯

 明治44年3月25日、肺を患い28歳の若さで福岡の松浦病院で亡くなった青木繁は、いまでは近代日本洋画史上の代表的画家のひとりとなっている。
 在世中に一度、彼は華やかに認められ、「海の幸」を頂点に明治浪漫主義時代を駆け抜けたが、晩年はほとんど顧みられることなく、不遇の人生を送った。


▼生い立ちのころ

 青木繁は、明治15年7月13日、福岡県久留米市荘島町431番地に生まれる。父は久留米藩士、青木廉吾、母は久留米に近い八女郡岡山村の医者の娘、吉田マサヨ。繁はその長男、上に姉ツルヨ、下に一義、タヨ、義雄の弟妹。
 青木家は代々茶道の家柄で、祖父にあたる宗龍はことにその道に堪能の聞こえが高く、父廉吾はその次男。気性の激しい人であったらしく、士族の長男であった繁に、幼いときから厳しい躾を強いている。代言人となった父廉吾は、その仕事で家を空けることが多く、母方の祖父が繁の面倒を見ている。
 この祖父吉田秀三は父にも勝る厳格な人だったようで、長崎で蘭学や漢学を学び、日田の広瀬淡窓の咸宜園(かんぎえん)に遊んだ経歴を持つ。繁は寒い冬にも朝くらい内に縁側の板敷きに机を持ち出して読書をさせられ、しかも大きな声を張り出さねばならなかった。さむらいの子として育った繁が、後年、いっさい妥協をしなかった負けん気は、この頃に培われていたものであろうし、漢籍の素読や、王義之の手習いなど幼いときからできていたからこそ、のちの才能開花の素地になったことが窺われる。
 明治20年9月、久留米尋常小学校に入り、24年3月に同校卒業、ついで4月久留米高等小学校に入学。ここでは坂本繁二郎と繁は同年で級友、田舎の小学校の同じクラスから日本洋画史に残る二人の画家が巣立ったのは、きわめて珍しいできごとである。
 この高等小学校を出た繁は、28年4月に藩校の由緒をもつ中学明善校に入学する。この時代から文芸や美術に情熱を注ぎ、校内では文芸誌の熱心な投稿者となるし、校外では、久留米でただひとりの洋画家であった森三美のもとで絵の勉強をし始める。この人は京都の府立画学校で勉強し、小山三造に学んだという経歴があり、帰郷して石版印刷の仕事に就いていた。坂本繁二郎や丸野豊も同じ門下生であった。そこにはターナーやコンスタブルなどの原色版の入った英国の習画帳があって、それが少年たちの心にどれほどの夢を与えたか、新鮮な刺激を与えたか、当時では想像以上のものがあっただろう。
 繁の中学時代は倫理、作文、国漢がよくて、図画は中くらい、当時の臨画帳などの描き方がおそらく性に合わなかったと思われる。しだいに文芸の才が開きかけていた繁は、明治の下級武士の境遇にあって、家庭では母の同意があったものの、「美術学校へ入って、美術家になりたい。」という繁に、「美術とはなんじゃ、武術の間違いじゃないか。」とひどく父の機嫌を損ねたりもしている。
 早熟であった繁は哲学、宗教、文学に関心を持ち、人生とはなにか、人生をどう解釈すべきかなど、自分の一生を考える時期にきていた。芸術創作ということに心底から共感した繁は、ハルトマンの「物の社会は物これを造れり、唯仮象の社会のみ人これを創作し、人類のみこれを楽しむ」に、これこそ男子一生の仕事と決意している。武士の子として当然であると思われるが、歴山帝(アレキサンダー大帝)のような偉業の、絵画に遠大な夢を持ち始めるのもこの時期である。
 学校では白紙答案を出して落第、家庭では父の反感が増すなど、悶々としている一方、かたくなに因習や習俗に抵抗して、文学や美術に情熱を燃やし続けている。
 そのうちに繁を可愛がっていた母方の叔父の斡旋で、父もやむを得ず美術家志望を認めることになる。明治32年2月、明善校を退学した繁は、その5月に勇躍上京の途についた。山陽線がまだ徳山までしか通じていなかった頃、九州から東京への道は遠かっただろう。愛読する島崎藤村の「若菜集1巻」を懐に、馬関(下関)海峡を渡ったと、のちに友人の間で流布されていた。

  
青木繁旧居(福岡県久留米市荘島町)=全景     青木繁旧居(福岡県久留米市荘島町)=内部


 (以下、準備中)

▼修業時代の東京


▼千葉・館山市布良――海の幸


▼栃木・芳賀町――わだつみのいろこの宮


▼九州へ帰る、放浪の日々





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